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  • Naoya Esa

もっと、こまかい、えさ。

最終更新: 2018年8月19日



【 はじめに 】

 親や周囲の影響をうけて医学というものに興味をもち、特に疑問を抱くこともなく大学受験をえらび、2013年4月に鳥取大学医学部に入学してDoctorへの道を歩きだしました。


 また、大学入学後医師として生きつづける人生に疑問を抱き、純粋に自分が子どもの頃から好きなことをやってみようと決心し、2014年3月にデザインを学びはじめ、2017年4月からフリーランスのVisual Designerとして色々なお仕事をいただくようになりました。



 現在はDoctorとDesigner(正しくはStudent Doctorですが(^-^;))、2つのことをやっていて初めて『自分』であるとはっきり言えますが、はじめからそれを目指していたわけでもありませんし、はっきり言えるようになるまでもたくさん悩みました


 これから私自身のことを、その2つに関することを中心に書いていこうと思います。

 だらだらと長くまとまりも無いので、チャーッと流すように見ていただければ幸いです(^-^)





【 ちびっこ時代 】

 大阪府の堺市でうまれ、7年ほど?住んでいました(正確に何年かは覚えていません笑)。9ヶ月で歩き始めたらしく、とんでもないやんちゃ坊主だったそうです。


 キリスト教の幼稚園に通っていたのですが、遊んでいてマリア様の像を割ったり、朝礼に集まらずに遊び続けていて名札を取り上げられたり(「ここの生徒じゃない!」という意味)、女の子と正面衝突して怪我を負わせたり、園長や親たちに怒られた記憶しかありません(^-^;)

 習い事でも暴れちらして、親をめちゃくちゃ困らせたそうです。


 この頃はポケモン、カービィ、ドラえもん、ウルトラマンなどが大好きで(今でも大好きですが)、ずっとピカチュウやドラえもんの絵を描いていました。絵を描くのは子どものころから好きだったのだと思います



 母親がもっとも意外に思ったらしいエピソードが1つあります。

 小学3年のときに転校することになったのですが、最後の登校日に「お世話になったから幼稚園の園長のところに挨拶にいく」と言い出したそうです。

 怒られてばかりで良い思い出がないはずの園長に会いにいくと言ったのは意外だったらしく、印象深かったそうです。私にその記憶がまったく無いのが悲しいところですが、客観的に思うのは「間違いなく生意気なガキやったんやろな」ということですね( ´〜`;)





【 お受験時代 】

 転校することになったキッカケは引っ越しでした。大阪府大阪市の上本町というころに引っ越してしばらくし、兄の小学校卒業のタイミングで地元の小学校に転校しました。


 小学3年のころから中学受験の塾「浜学園」に通っていたのですが、転校によってアウェーの環境に放り込まれたことで、今思えば自然と、既に耕されていた塾のなかでの人間関係に重きをおくようになったのだと思います。

 勉強を苦に思うこともなく、いい友達もたくさんおり、(好きな子もおり、)転校先の小学校では幼稚園時代とうってかわって優等生で、何不自由なく日々を過ごしていた記憶があります


 日に12時間ぐらい勉強することもあったぐらい、たくさん勉強していました。何の苦もなく当たり前のようにやっており、充実した時間でした。

 塾では月に1度の「公開テスト」というもので順位付けがあり、それによってクラス分けをされていました。上位から、少数で本当にトップの人間しか入れない「V0」、そして通常規模のクラスが「V1」「V2」「S1」…と続いていき、私は基本的にV1、たまにV2にいました。



 「受験」のための塾ですから当然志望校の模試もあります。私は「最難関」といわれる灘中学校を目指しており、灘中学校の模試を何度もうけていたのですが、1度も合格判定が出たことはありませんでした

 中学受験というものに「浪人」は無いので、たくさんの学校を受けられる代わりにイッパツ勝負です。私は1度も合格判定をもらえないまま受験本番を迎え、灘中学含めて数校を受験しました。


 家族や周囲の心配をシリメに、私は「合格する気しかしない」という自信で溢れていました。まさに『根拠のない自信』。このときの自信は今でも私の中で『根拠のない自信』の基準になっています。

 その自信のとおり(?)無事灘中学校に合格し、通うことにしました。





【「日本一」時代 】

 今は知りませんが、当時灘中学校(以下高校も含めて「灘校」と書きます)は「日本一」の学校と云われていました。


 目的もなく(だいたいの生徒がなかったかもしれませんが)灘校に入った私は完全に迷走していました

 入学後すぐに特に好きでもないのに野球部に入り、すぐ辞め、その後水泳部に入るも幽霊部員と化し、勉強もせず、何もしていませんでした。集団行動が嫌いで、なんとなく陰気なキャラでした。

 みなさんは学校の試験で0点をとったことがありますか?私はあります。


 中学2年のときに、学芸祭の合唱コンクールがきっかけで(灘校は男子校なので)男声合唱の部活「グリークラブ」を立ち上げることになりました。

 引退までまともに活動をしていたのはこの部だけで、顧問の先生や親の協力のおかげで定期演奏会などではたくさんの人に来ていただき、良い経験となりました。


 この部は不思議なクラブで、同学年の生徒会や部長といった学年の中心人物といわれる人間が集まったクラブとなっていました。

 「声のデカい」人間が集まったからなのか、それとも内輪で"そういう"空気が生まれていったからかは分かりませんが、同級生の生徒会≒グリークラブでした(それだけに敵の多い部活となってしまっていましたが…( ´〜`;))。



 そんな人たちの中で私はというと、中学3年のときの文化祭の装飾のためにトレースして描いていたジブリやディズニーの絵が好評をもらい、それが嬉しかったのをキッカケに、いつからかあまり描かなくなっていた絵を描くようになりました


 「いちご100%」がきっかけでマンガにハマり、いろんなマンガを漁るように読むようになり、「バクマン。」に影響されてマンガを描くようにもなりました。親に隠れてたくさんマンガ・画集・画材を買い、絵を描いていました。

 マンガ家になりたいと思った時期もありました。でも本気ではありませんでしたし、自分がマンガ家として働いている未来も見えませんでした。


 クラブの仲間たちが学校の中心人物として動いていたころ、私は学内のイベントのTシャツデザインをしたり、生徒会誌の表紙を描いたりしはじめました。

 「デザイン」というものを初めて行ったのは高校の時で、やっているときはとても楽しかったことを覚えています


 当時、デザインを生業として生きていくことなど全く考えておらず、親の背中を見て育ち、「ブラック・ジャック」「ブラックジャックによろしく」「医龍」などの影響も相まって、医師を目指していました

 周囲にも医学部を受験しようとしている人間はたくさんおり、安心感もありました。深く考えたことはありませんでしたが、人体や病気への興味もあり、なんとなく医者になりたいと思い受験勉強をしていました。


 が、マンガ漬けで勉強もしなかった私は高校3年の成績が200/220人ぐらいでした。もっと悪かったかもしれません。



 この頃、いつからか思い始め、唯一「なんとなく」でなかったものが1つありました。それは『江左という名を遺したい』というものでした。

 卒業文集に「医者として不純かもしれないけど、病院の中や何かの分野において『1番』になりたい」というようなことを書いたのを覚えています。「1番」になれば名を遺せると考えていました。


 「日本一」の学校にいて「日本一」がすぐ隣にたくさん居る場所で、全くの凡人であった自分も『カッコよく生きたい!』『何かを遺したい!』という想いがあったのだと思います。

 「日本一」の環境は中高生の私に良くも悪くも大きな影響を与えました。これが、高校時代唯一の執着でした。





【「相方」の話 】

 ここで少し別の話。


 私には「相方」と呼び、今も一緒に活動していて私に少なくない影響を与え続けている人間がいます。

 現在アメリカのNew Yorkで音楽活動を行っている、『Vabo入潮(本名:入潮浩太郎)』という名前の男です。


 この男と初めて会ったのは灘校にいたころで、中学3年のとき共通の友人の「お前らめっちゃ仲ええんちゃうん?」という謎のフリに対して、2人とも「せやで!」と言って廊下でハグをしたのが最初の出会いでした。

 その後高校1年のときに同じクラスになり、「い」と「え」なので席が近くてすぐ遊ぶようになり、休み時間に誰に求められるでもなくずっと即興劇のようなものをやっていました。我々の原点です。


 入潮はこの頃既にミュージシャンという「自分のやりたいことをして生きていく」決意をしていました


 高校2年の冬に、友人に勧められて「ラーメンズ」にハマっていた私は、文化祭でコントがやりたくて入潮を誘いました。入潮は二つ返事でOKを出し、コンビ『ルサンチメン RESSENTIMEN』が結成されました。

 高校3年の文化祭でやったルサンチメンの初めてのコントは私にとって、何の手がかりもなく『面白そう!』でやってみて自分たちで試行錯誤し、最後まで楽しくやれた初めての経験となりました。


<ルサンチメンのホームページ>


 当時、どちらかといえば陰気でいじられキャラだった私が、クラスの中心で陽気に騒いでいた入潮を誘ってコンビを組んだのはなかなかに意外だったようです。


 2人が「コンビ」になり、入潮が「相方」になってから、2人はよく話すようになりました。「やりたいことをする」ことにおいては先輩であった相方からはたくさんの影響を受け、ルサンチメンとともに現在に至るまで私に多大な影響をあたえています。





【「ザリガニ」時代 】

 中学受験のときとは違って大学受験の勉強は私にとってものすごくツマラナイもの、はっきり言って「嫌い」で、私は高校3年のときの大学受験に失敗し、浪人生活をおくることになりました。


 浪人時代もやる気があったのは初めだけで、「阪大医学部に合格する!」と豪語するも予備校をサボりはじめました。医師になるための準備とはいえ「嫌い」なことがどうしても出来ずに、映画を観まくりマンガを読みまくる生活をセンター試験1ヶ月前の12月ぐらいまで送っていました。

 当然映画やマンガで学力は伸びず、予備校の人たちや周囲の人間を拒絶して、泥にまみれたザリガニのような生活を送っていました


 浪人時代のセンター試験はボロボロでしたが、追いつめに追いつめられて二次試験までの短い間は集中して受験勉強をし、幸運にも鳥取大学医学部に合格し、入学することにしました。


 しかし、大学でも同じ状況は続きました。

 新天地にて新しい学問を学ぶ楽しみは少なからずありましたが、その楽しみは思ったほどでは無く、気づけば私は受験のときと同じように「勉強したくないなぁ」と言っていました。

 大学にまで来て「勉強したくない」と言っている自分を心底恥ずかしく思い、鬱屈とした日々が続きました。そしてこの世界で『1番』になることは出来ないと思うようになっていました。


 何か「面白いこと」をして生きたいとはずっと思っていて、自分にとってそれが『絵』や『デザイン』であることも分かっていましたが、それをして生きていく決心がつきませんでした



 この頃唯一私を支えたのは、ルサンチメンの文化祭でのコント以来の活動であるネットラジオ企画『ルサンチメンのフツウキライ』でした。

 全100回を目標に、何の利益もなくただ自分たちの思う「面白いこと」のために、誰に云われるでもなく自分たちの100%を投入していました


<ネットラジオ「ルサンチメンのフツウキライ」>


 しかし勉学のほうに対するやる気は変わらず、大学1年のときに単位を落とし留年してしまいました。





【「トゲトゲ」時代 】

 留年が決定したとき、私は偶然相方とアメリカのシアトルに旅行中でした。


 勉強をしていなかったとはいえ留年はそれ相応にショックで、そのタイミングで相方と共にいたのは幸運だったのだと思います。

 相方と夜通し色々な話をし、21歳の私は『やりたいことをして生きていく』、すなわちデザインをして生きる決意をしました。そのスタートダッシュのために必要な時間は、留年のおかげで充分にありました。


 親に頼みこんでカナダのバンクーバーに短期語学留学をさせてもらい、英語文化を学ぶとともにただひたすら机に向かっていました。3ヶ月間海外という孤独な場所に身を置き、毎日何かを創り、他人と関わるより自分を磨きトガらせることしか考えていませんでした


 「ルサンチメンのフツウキライ」では毎月新しいアートワークとBGMを更新していく約束を相方としており、加えてOSTや楽曲のアートワークなどを制作しました。人目に晒されるものをコンスタントに創るのは当時良い刺激となっていました。



 この頃にたくさんの作品を作ったことが、私のデザインの基礎を形作りました。ひたすら自分のことしか考えていなかったのでそれによる弊害もありましたが、この頃は大きな問題ではありませんでした。

 好きなことを一所懸命やっていると気持ちのバランスが取れるようになったのか、医学の勉強も楽しくやれるようになっていましたが、この頃はデザインの方で結果が出るなら大学を辞めることも考えていました


 当時の日記にはこう書いてありました。

 「やりたくないことはやるな。やりたいことをやれ。そうやって生きるのは辛いかもしれんけど、でも『生きる』ってのはそういうことだと思う。」





【「○○」時代 】

 はじめたての時期はただ手を動かしていたワケではなく、同時に色んなことを考えていた時期でもありました。

 『生とは』『死とは』『デザインとは』『為事とは』『変化とは』『自分とは』『他人とは』などなど、とても書ききれるものではありません。もちろん答えの出ていないものもたくさんあり、今に至るまで続いているワケですが。


 色々なことを考えながら色々な作品を作っていくうちに『自分の理想のデザイン』、デザインで何をしたいかについて考えるようになりました。


<「私が『デザイン』で何をしたいのか。」>


 ほとんど自分のことしか考えていなかった弊害からか、元々そうだったのか、どっちもが原因だとは思いますが私はとても捻くれてしまっていて、確かに「好きなことをして生きていく」覚悟はしていましたが、我が強くとてもブサイクでした

 しばらくして、これは大きな問題であると気づきました。トゲやツメを抑えて、まるくなる必要があると考えました。


 困っている人がいて、その人の願いを叶えるこれがデザインの仕事だと私は思います。私が自己主張するスキマは本来なく、トゲもツメも必要ではありません。

 そう思うようになり、Visual Designerとして『社会や人の間を"なめらか"にし、はっきりと分かることはないが確かに存在する』ようなデザインを理想と考えるようになりました。


 そうして相方や親しい友人、恋人と関わり、まるくなっていった頃、デザインでお仕事をいただくようになりました。無関係ではないと私は思っています。



 また、大学の方は辞めることなく続けており、やがて病院での実習がはじまり、Student Doctorとして医療の現場にふれはじめました。

 「困っている人がいて、その人の願いを叶える」のは医療の仕事でもあります。先程「困っている人がいて、その人の願いを叶える」のがデザインの仕事と書きましたが、それに気づいたのは医療の仕事に気づいた後でした。


 本質的には同じだと考えるようになってからは、医療の考え方がデザインに、デザインの考え方が医療に、互いに影響を及ぼすようになりました

 各分野で気づきにくくなっていることや心構えなど、どちらかで詰まればもう片方の立場で考える。そうすることで2つの分野がこれまで以上にうまく回るようになりました。


 それまでも名乗ってはいて、どこか上辺だけだった肩書きでしたが、ようやく私は心から『Doctor & Designer』と名乗ることができるようになったのです。

 そうして今、2つの分野で更にプロフェッショナルとなるために日々邁進中であります。





【おわりに】

 美化も風化もさせないためにありのままを書いたつもりです。

 長くなりました…がこれでも相当削ったほうなのです( ´〜`;)


 ここまで読んでいただいた機に、少しでも私のデザインややっている事に興味を持っていただければ、それ以上私が言うことは何もありません。

 最後まで読んでいただき有難うございました!(^-^)


2018年8月18日

江左尚哉 Naoya Esa


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